五月十八日

誠に勝手ながら、本当に勝手にしろと言った感じだが、昨日「西野亮廣のエンタメ研究所」に入会しました。

 

放置しまくっていた奉画堂のインスタアカウントも2作品と一緒に再開して、なんとか時間を作りながら自分のやりたい活動も広がっていけばいいなと思います。

 

トレーナーとしてはひとまずこのまま進んでいきながら、他の可能性がどこまで広げられるのかこれからの人生で試してみたい。

 

奉画堂が復活するにあたって、あちらのブログにも記事を書いていった方がいいと思うので、業務連絡やオープンな話題に関しては奉画堂、悩みや個人名がでるような内容に関してはこちらを使い分けながら文章も書いていくつもりです。

 

最近は本当にインプットばかりで何も発信してないし、発信できるほど考えもまとまらない。ずっとぐるぐる回りながらあーでもないこーでもないとひとりで考えています。

 

まだまだ成長できる余地はたくさんありました。これからそれを体現していければと思います。

 

 

四月二十三日

そういえば先週の鹿児島遠征は凄まじくいろんなトラブルが起こったっけ。

 

朝の5時半から火災報知器がけたたましくなったと思ったら今度はその原因であった水漏れのせいで全館シャワーが使えなくなり、体育館へ向かうタクシーは目的地の伝達ミスによって別方向へ走り出した。

転がされた大玉の中に放り投げられたような精神は金沢へ戻ってくるまでは何とか持ち堪えてくれたが、それまで休みなく働いていたことも手伝って月曜におれは珍しく風邪を引いた。

帰ってくるなり体調が急変したのでもしや。と背筋が凍ったが、タイミングよくPCR検査を受けていたので新型コロナウイルスの影響でないとわかったときはホッとした。

3日かけてどうにか体調が戻り、今日ついに焼津に向かう事ができている。

 

 

やっとだ、やっときた。

 

 

もともとB3で働くことを決めた時から静岡で試合があることはわかっていたから、なんとなく楽しみにしていたけれど、まさか焼津開催になろうとは。

ベルテックスとしても今回の焼津開催は初めての試みで、静岡市焼津市の謎のバスケ協定によって実現したらしい。

 

学生時代はずっとバレーボールを追いかけて、スポーツに携わりたいと思いながらアスレチックトレーニングを学び、金沢で競技は違えどプロとしての居場所を見つけ、故郷にて現状の集大成を確認できるということは本当に幸せな事だと思う。苦労も苦悩もあったが、挫折はなかった。なんとなく自分が進みたい方向に舵を切り続けていたらこの場所に着いていた。恐ろしく運がいい人生だ。

 

チームとしても個人としても、きちんと戦える準備はできてる。選手の調子も悪くない。忘れ物もしていないはずだ。あとはただ楽しみたいと思う。人生で大切な二日間にきっとなる。

 

来期の話は中島さんからうっすらとされている。契約更新の時期だから、もろもろ早く決めなければならないし、早く決めれば早く動き出せる。まだまだやりたいことがある。

 

 

 

やっぱり太平洋側を走ると心が落ち着く。

 

 

 

四月二日

気づけば桜の開花もピークを超えて、春の陽気はピーカンで、おれのアクセラは黄砂にまみれている。

 

この歳になって「なっしーさんが何かしょうもないことを言っている」などと思われたくもないので、エイプリルフールも未遂に終わった。

 

実に平凡な四月の始まりに今度は東京へバスに揺られている。おれの座席は前節から最終列のアンドレの隣になったので、こうして落ち着いて記事を書くことができる。本を読んでも気が散らないし、飽きたらバスの中で流れている映画を眺めてもいい。わりと気に入っている。

 

夕べ見たYouTubeの中で、こんな会話があった。男女の二人組が竹下通りを歩いている中、男の子がマクドナルドに入りたがり、相手の女の子が「マックなんていつでも食べれるやん」と呆れていた。何の変哲もない、平凡なありふれたやりとりだと思う。

 

では、マクドナルドに限らず、例えば女の子とデートをしている時にファストフードを食事として選ぶことがそこまで咎められることなのだろうか。たしかにマクドナルドは日本中、おそらく世界中でも手軽に見つけることのできるファストフードチェーンで、現代人にとっては特別感やありがたみは感じにくい場所かもしれない。

 

だがそれは、自然発生的に起こった出来事なのか?そこらに自生しているタンポポが勝手に種を飛ばして、種の存続を図るように、各種ファストフード店はあちこちに建ったわけではない。もともとアメリカで発祥したハンバーガーショップが、独自のレシピと戦略で日本へ進出を果たし、各店舗の商品品質の改善、業務態度などもろもろの企業努力の結果、日本のどこでもマクドナルドのハンバーガーは食べられるようになった。その努力と結果は決して蔑まされるようなことではないはすだ。「所詮マックでしょ?」などと言っている場合ではない、マクドナルドがすごいからここまで店舗が増えたのだ。マクドナルドは自生しない。戦略と努力で今の居場所を勝ち取ったのだ。その点で、マクドナルドは他のレストランよりも優れた食事を提供できるレストランである。数の多さは特別感の欠如ではない。魅力的な食事を日本の至る所で安価に堪能することができるというサービス能力の高さだ。こんな贅沢が他にあるか。

 

ここまで書くと、マクドナルドでハンバーガーを注文することにもはや誇りすら感じないか。大きく頷いて納得してくれる人もいることだろう。

 

それでもやはりファストフードなんて嫌よ、なんて言われてしまうデートもあるかもしれない。

そんな理屈が通用しない女の子を相手にするときはこんな言葉をかけてあげるのがよいだろう。

 

「君との時間の中に、君以上に特別なものは存在しない。たとえナゲットをかじっている時だって、君となら最上の時間を作り上げることができるんだよ」と。

 

これできっとイチコロだ。

 

 

久しぶりにこんなくだらないことを書いたもんだ。

だが、悪い時間じゃない。

 

 

要するに、現在のおれはこんなことを考えるくらい、程よく精神的に健康だということなのである。

 

 

三月三十日(私用メモ)

ホリエモンから見た『えんとつ町のプペル』のエロいところ。

 

劇中の時期設定がハロウィーン

ハロウィーン時期の定番化を狙える。季節感をあえてつけることで毎年観られる作品になる。各キャラクターの認知、コスプレの定番化。

 

各キャラクターのネーミングが日本語に偏ってない。

→海外の人たちにも受け入れられやすい、作品自体の海外進出の可能性。

 

映画製作会社だけでなく、オンラインサロンメンバーからの宣伝効果がすごい。

映画が面白い面白くないというものさしより、西野本人を応援したいという気持ちからの宣伝。

映画の裏側に見える西野本人の人間性

 

三月二十六日

バスに揺られながら岡山へ向かっている。

花粉はつらいが天気はよろしい。

車内ではアパルトヘイトを題材にした映画が流れているけれど、なんだか映画を見る気分でもないから記事でも書くことにした。

 

古典部シリーズの中に「長い休日」という短編がある。

 

「やらなくてもいいことならやらない。やるべきことは手短に」

主人公、折木奉太郎のモットーだ。氷菓を読んでいた時なんかは、人間性がわかりやすく現れた良い表現だな、なんて思っていた気がする。だが「長い休日」の中ではその言葉の真意というか、なぜ彼がそんなことを言い出したのかということをテーマに話が展開されている。

 

奉太郎は今でこそ、省エネ主義の効率主義。『ものぐさが服を着て歩いている』だなんて言われ方をしているが、幼少期の頃はなかなかのお人好しだったらしい。

頼まれた事を断らない性格だった彼は、ずっと自分のしていることを人助け、人の道に沿った正しい行いだと疑わなかった。

けれどある日のできごとをきっかけに、その考えは逆転する。自分は利用されていたのだと。奉太郎くんならきっとやってくれる。嫌な顔もせず、文句も言わないだろう。誰かがやらなくてはいけないことを、自分も気づかないうちに人助けだと思いやらされていたことに気づいたとき、彼は心に決めた。

 

 

「やらなくてもいいことなら、やらない」

 

 

そうして、もう都合よく人に利用されまいとする、彼なりの信条ができあがった。

おれは米澤先生のこういう深い心情描写が好きだ。言葉の端々に隠れているえぐみのある感情や真相が表に現れたとき、えも言われぬ感情になる。

この話を読んでから、自分はどうなのだろうかとよく考える。都合の良い人は、当然周りから必要とされる。しかしその人は本当にそうあるべきなのだろうか。アテにされることを喜ぶのは愚かなことではないのか。頼りにされることと、アテにされることは違うのだろうか。違うとすれば、その線引きはどこですれはよいのだろうか。

 

 

やるべきことというのは、意外と少ないのではないか

 

 

 

窓の外は時折トンネルに入り暗くなる。

 

バスはしばらく到着しそうにない。

 

 

 

三月十九日

鴨さんの講義の中に、

 

「違和感を、よろこんぶ!」

 

という特殊な思想的な言葉がある。

 

元来生物というものは、本能的に感じた違和感を避けて生きる傾向にあるから、逆にそれを進歩への好機と捉え、乗り越えてしまおう。という意味の言葉だ。

 

2020年当時はおれは鴨さんの事を崇拝していたから取り憑かれたように動画を漁っていた。「新年スタートダッシュセミナー」なるものにも参加してしまい、真っ赤なジャケットを羽織った鴨さんが3メートル先に立ったときは鳥肌が立った。

 

この言葉を聞いたときには「なるほど、たしかにそれは人として成長ために必要なことだなあ」とたしかに納得したのを覚えている。

 

おれの描く絵は、違和感をひとつずつ潰していく作業。

 

描きたいものを描き始めて、描いてみたら全然上手くいかなくて、自分の絵のどこがおかしくて歪なのかを見つけては修正する。

 

加筆しては遠目から眺めて、次に加筆する部分を決める。その繰り返し。作業工程そのものは、おそらく全く芸術的ではない。

 

加筆と修正に没頭し、何日も経った頃、冷静になって画用紙を眺めると自分でも驚くほど細やかな絵が浮かび上がっている。

 

この工程を多く踏んだ作品ほど、完成後に人の目に触れた時には違和感なく視覚に捉えられ、かつての違和感は、快感となる。人を自然と惹きつける絵になるのだと思う。

 

これは実生活のどの分野においても同じじゃないのか。文章、映像、建築、料理、思考そのものに至るまで、より多くの違和感が発見され、解決されたものは、それを受け取った者にこの上ない快感を植え付けるのではないか。

 

そして、概念や定義は、自身の中で噛み砕きながら発展や拡大が可能である。

 

つまり、先の話の逆に言うと、全く違和感を感じることなく完成した作品というのは、あまり価値や意味を持たないものなのではないか。世の中ではガラクタとして扱われる。

 

違和感への対応は大きく4種類。

1. それを発見し、対処、前進することができる。

2. それを発見し、対処することはできるが、やらない。

3. それを発見することはできるが、対処する能力がない。

4. それを発見(感知)することができない。

 

世の中の多くの人はおそらくおれも含めて無数の違和感に対して2から4の対応になっているはずだ。

 

そのために多くの人は、不平不満に溢れ、違和感に触れようとせず、その大元にある本質的な違和感に気づかず、人生を浪費している。

 

そしておそらくこの解釈は間違っていない、少なくともおれは納得していて、しばらくこの考えのもと行動していける。

 

生活の中で違和感を見つけ続ける。

 

それは解決できるのか、できなければ何が足りないのか、違和感をなくし続けることで、もっと人生は豊かになるはずだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

ふう。

 

この記事は果たして、違和感にとどまるのか、それとも読む人を惹きつけるか。

いずれにしても、まだまだ加筆と修正が必要だろうな。