三月十九日
鴨さんの講義の中に、
「違和感を、よろこんぶ!」
という特殊な思想的な言葉がある。
元来生物というものは、本能的に感じた違和感を避けて生きる傾向にあるから、逆にそれを進歩への好機と捉え、乗り越えてしまおう。という意味の言葉だ。
2020年当時はおれは鴨さんの事を崇拝していたから取り憑かれたように動画を漁っていた。「新年スタートダッシュセミナー」なるものにも参加してしまい、真っ赤なジャケットを羽織った鴨さんが3メートル先に立ったときは鳥肌が立った。
この言葉を聞いたときには「なるほど、たしかにそれは人として成長ために必要なことだなあ」とたしかに納得したのを覚えている。
おれの描く絵は、違和感をひとつずつ潰していく作業。
描きたいものを描き始めて、描いてみたら全然上手くいかなくて、自分の絵のどこがおかしくて歪なのかを見つけては修正する。
加筆しては遠目から眺めて、次に加筆する部分を決める。その繰り返し。作業工程そのものは、おそらく全く芸術的ではない。
加筆と修正に没頭し、何日も経った頃、冷静になって画用紙を眺めると自分でも驚くほど細やかな絵が浮かび上がっている。
この工程を多く踏んだ作品ほど、完成後に人の目に触れた時には違和感なく視覚に捉えられ、かつての違和感は、快感となる。人を自然と惹きつける絵になるのだと思う。
これは実生活のどの分野においても同じじゃないのか。文章、映像、建築、料理、思考そのものに至るまで、より多くの違和感が発見され、解決されたものは、それを受け取った者にこの上ない快感を植え付けるのではないか。
そして、概念や定義は、自身の中で噛み砕きながら発展や拡大が可能である。
つまり、先の話の逆に言うと、全く違和感を感じることなく完成した作品というのは、あまり価値や意味を持たないものなのではないか。世の中ではガラクタとして扱われる。
違和感への対応は大きく4種類。
1. それを発見し、対処、前進することができる。
2. それを発見し、対処することはできるが、やらない。
3. それを発見することはできるが、対処する能力がない。
4. それを発見(感知)することができない。
世の中の多くの人はおそらくおれも含めて無数の違和感に対して2から4の対応になっているはずだ。
そのために多くの人は、不平不満に溢れ、違和感に触れようとせず、その大元にある本質的な違和感に気づかず、人生を浪費している。
そしておそらくこの解釈は間違っていない、少なくともおれは納得していて、しばらくこの考えのもと行動していける。
生活の中で違和感を見つけ続ける。
それは解決できるのか、できなければ何が足りないのか、違和感をなくし続けることで、もっと人生は豊かになるはずだ。
ふう。
この記事は果たして、違和感にとどまるのか、それとも読む人を惹きつけるか。
いずれにしても、まだまだ加筆と修正が必要だろうな。