三月十二日
10年前の3月11日は東日本大震災だった。
当時のおれはまだカーニーにいて、ネットニュースで地震や津波の様子を確認していた。
現地の日本人で、千羽鶴をこしらえたり、ウォルマートの店頭で募金を募ったりしたのを覚えている。溝さんやよしおと一緒に星を見に行ってお祈りの真似事なんかもしたっけか。
津波の動画に衝撃も受けたし、被害に関しても気の毒だと思った。
今日はなんだか、そのことで強烈な違和感を感じていた。
各種SNSを開けばみんながこぞって「3.11を忘れない、今ある日常に感謝を」と発信をしている。
それぞれが、10年前の今日抱いた印象と今の環境の尊さを書き込んでいた。
初めはおれも、何かしらの発信をしなければと思っていた。しかしよくよく考えると自分がその地震についてそれほど深い感情を持っていないことに気づいた。
「何を言っても白々しいな」と。
それと同時におれが感じたことは、「みんな本当にそれ思ってる?」てこと。
社会的な団体や、一定のレベルの著名人なんかは、わかる。
インフルエンサーになりうる人間は道徳的にそんな発信をすべきだろう。被害を風化させてはいけないと。だけど、必ずしもこんなに全員がそんなポーズを取る必要はないんじゃないのか。
全ての発信を否定する気はもちろんない、心からそう思ってる人もいるだろうし、発信の真意はわかりようもない。
けれど、
「みんなが発信しているから」
「発信のネタになるから」
「善人でありたいから」
「反響があるから」
なんかの理由で発言をしようものなら、被災者に対してこんなに失礼なことはないんじゃないかと思った。
ならばいつかの台風で川に落ちて死んだどこかのじいさんのことは?
雪害で死んだ子供のことは?
被害が甚大だったから悼むのか?
これが日本で起きたことだから?
メディアによって10年前の今日が東日本大震災だと知らされ、それによって量産された数々の発言があまりにも白々しく、軽薄に見えた。
本心からでない言葉は誰にも響かない。